祭り

関田神楽(神楽獅子舞、天狗の舞) 上関田

平家の落武者が土着し、安泰を祈願して舞ったのがはじまりという(1185年頃)。天狗の舞で始まり、天狗の刃で御幣(ごへい)をきリ、境内を清め、獅子舞が始まる。鎮守(八幡宮)の奉納神楽となり、戦国時代上杉謙信公にも上覧されたという。
毎年8月18日、関田八幡神社、夏祭りに五穀豊穣・国家安泰を祈願して社堂前で舞い奉納される。
このホームページのマスコットである「てんぐ」と「しし」は、この関田神楽の天狗と獅子をキャラクター化したものです。

関田こうだいじ

関田に残る関田こうだいじは、室町期のころ流行した念仏踊りの基本型が残り、「ハア―、来るかとヤ―川下見れば川原柳の影ばかり」など全国共通の歌詞のものが多い。大熊川すじの「猿供養寺こうだいじ」、櫛池川すじの「梨平こうだいじ」のもとにもなっている。

「チョイ と出て 山の越照らす。 おどる娘の 腰照らす。」関田こうだいじの歌詩の一つであり、元唄と言われている。

の起こりは、今を去る400年余前、時まさに戦国時代、各所に名将武将続出、そのいづれもが天下制覇の野望に燃えていた。春日山城主、上杉謙信景虎もその中の一人であった。甲斐の武将武田信玄と信濃の国の川中島に陣を構え、勝敗を競ったのもこの頃である。攻めつ守りつ戦火を交えること、実に5度におよび、中でも5度めの永禄4年の戦いがもっとも激烈を極め、上杉勢が大勝利を収めたので、城下あげて喜びあったという。

 後の住民、特に上越の民は我が殿勝てりと喜び熱狂、8月18日これを祝って唄い踊り明かしたのが「関田こうだいじ」の始まりと伝えられている。

 

十日町にもあるこうだいじ(新保広大寺)

元禄のころ、寺の廓文和尚が、門前の豆腐屋の娘おいちと馴れそめたことが世間の評判になり、"新保広大寺がおいちのチャンコなめた なめたその口でお経読む"と、唄いはやきれたのが始まりという。
また―説では、10代目住職白岩の代の寛政年間 、信濃川の氾濫によって出来た新しい土地をめぐり、農民の間に土地争いが起こった。この後ろ楯になったのが広大寺と十日町の縮間屋最上屋藤右衛門で、筆のたつ藤石衛門が白岩和尚を追放するため、和尚を誹講する唄をつくって世間にはやらせた。これが「新保広大寺」だともいわれる。この土地争いは十日町代官所で結着がつかず、江戸へ持ち込まれ、裁判に敗れた白岩が寛政7年、藤右衛門を呪いながら死んだ、ということになっている。

「観光と旅」より