社会 -筒方地区の歴史と文化-

聖の窟 栗沢 (丈六山腹)

山寺薬師の背後にそびえる丈六山を信仰の対象にした当時の仏教遺跡で頚城平野から日本海を眼下にひらける絶景の地であり、親鸞、恵信尼の三男、信連房修行の地として伝承される。
岩窟は天災風雪によって少しはくずれているが、歴年の古さをしのぶ、修行者の面影をのこしている。

関田峠改修記念碑 関田県境峠頂上

関田峠は、1,111メー卜ルで、関田から信州の温井へ通ずる6里の峠道である。江戸時代の末期(弘化4年~嘉永2年)に別所の藤巻勘之丞氏が発起人となり、人夫2500人をもって大改修がなされた。この遺業を讃えて関田峠に建立されたもので、碑文揮毫は江戸の昌平校講師佐藤一斉先生の筆なるものである。
関田峠は「謙信の軍用路」として、また「塩の道」として重要視され、大正末期からは「桑の道」として、その後も物資交流の道として信越交流の大きな役目を果たしてきた。当時霧や吹雪の中でも道に迷わないために、峠方向に一列に連なるブナの木が植えられたが、現在も光ヶ原の中で見ることができる。

関田八幡神宮境内杉神木

関田の関所は、高田城主松平越中守家の口留番所(くちどめばんしょ)として設けられたもので亨保16年関田村庄屋新井五郎右衛門作製の関所絵図によると、道は北西から南東に走り、関門はこの道と直角に交差する形で建てられ、高さ9尺(2.7m)幅2間半(4.5m)であったらしい。また、内側(北西側)には番所、高札場があり、関門の東西南方は石垣で囲まれ柵が設けられていた。明治政府が成立した後廃止になった。

関田には集落の総鎮守として八幡宮がまつられている。その境内に樹齢800年を経た大杉が昭和の初期までに数10本数えられていたが、度重なる豪雪や落雷などで現在数本となってしまった。その中で―番樹齢を経た大杉が御神木として町の天然記念物に指定されており、高さ30m、周囲16m、樹齢800年といわれ、今も力強い姿を見せている。

 

達野・玄藤寺油田

達野油田は元和年間(1615~)から採掘されたといわれ、文化・文政期に最盛となり、井戸が18ヶ所もあったという。 玄藤寺油田は安永〜寛政年間に発見きれた。タタラという新鮮な空気を中に送る技術も取り入れられ、採油量も飛躍的に伸びた。井戸の深きが20間(36m)以上もある深いものも掘られた。板倉町の油田は明治12~13年ころ最盛期を迎え、手掘り鉱夫の住む建物が荻平から田島(清里村)まで続き人口も急増した。しかし浅い油田の層だったため次第に枯れ、昭和初期に消滅した。

山寺街道について

 山寺街道は昔の面影が今も跡形がありますが、私共も中老を過ぎており、これを尚後世に伝えていかねばなりません。  さて山寺街道は(古文書では山寺海道と書いてあります。)曽根田の寺岡山を通って、栗沢大久保山(現在町有林)と国川山との界は山頂にあり、その界の道は山寺街道であります。それから南へ進んで栗沢の裏山の頂上を過ぎて栗沢追分地区から山寺地内に入りて山寺薬師に通じております。今は人が通らなくなって居りますが、寺岡山から山の山頂伝いに道跡が続いて居り、昔は山の上づたいに通行したと言われ、其の通りです。
 先ずこの街道に今も伝えられている箇所があります。曽根田の寺岡山という地名には何かいい伝えがあるかとも思われますが?栗沢と国川山の山頂を十三塚と言って居ります。この十三塚は戦国時代と思うが、何かの争いがあり、戦いの中で十三人が死んで、土地の人達は双方の戦死者をこの地に葬って土塚を作ったので十三塚と伝えられて居ります。今は何等の跡形も見られません。  又栗沢地内へ来てから山の下約50米位の処に面積は一反歩未満の池があって、一つは湯花池があり鉱泉を含んだ含んだ池があり、其の近くにはもう一つの池があります。それが釣鐘池といって、其の池の伝説では山寺のある寺で釣鐘を稲田の鋳物師で作って、それを運んで来て、山の見晴らしのよい処で一休みしたところ釣鐘がひとりでに池へ転げ落ちてしまったので、その後釣鐘池といっており、古文書にても釣鐘池と地名にうたってあります。又一説には稲田に注文に行った人足達が高田で遊び過ぎて金を使い果たして山寺へ帰るに困り此の池に転がり落ちたといって、山寺へ帰ったという笑い話もあります。
 それから追分地区にには賽の川原地蔵が山寺と猿供養寺へ別れる三叉路に建っております。この地蔵は幼児が死んで賽の川原で石を積んで塔を建て、親の罪のうめ合わせをしようとすると、石を積むと鬼が崩すので、何度も何度も積み続けるのをお参り人や通行人が小石を積んでお参りして通ります。これは街道で何かいわれがあると思うが、いい伝えは聞いておりません。尚その近くにトラ石と書いた野石がありますが、これもいい伝えも解りませんが、街道に意味のあるものと思われます。それからひじるの岩やの下を通って山寺薬師の西北の入口に達しております。  現在の道は十三塚の一部で池辷りの為、中途が少し切れており、又釣鐘池は地辷りの根源であるので昭和二十五・六年頃に排水工事を施してしまって今は水が溜まっておりませんが、これは今では誠に残念ですが、これも後世に良く伝えて置かなければなりません。

(栗沢 安原忠義)